三瀬地域内の「御林遺跡」からは、約1万2千年~1万3千年前のものと思われる貝塚が発見され、また、それぞれの時代を物語る石器や土器、勾玉なども見つかりました。
 三瀬には、その頃から人が住み、生活していたものと考えられています。
 三瀬 気比神社は、敦賀 気比神宮の主神である伊奢沙別命(いざさわけのみこと)ではなく、同じく食物の神である保食大神(うけもちのおおかみ)を主神としています。また、その御霊が、社叢の一番奥に佇む「お池様」と呼ばれる神秘的な池のほとりに祀られている事から、この地の古来の信仰が「森」や「池」を対象とした自然崇拝に基づくものであった事、そこに、この地の神道のルーツがある事が伺われます。

 三瀬 気比神社の具体的な創建年代については、江戸時代まで記録しているものが無く明らかでは無いものの、明治以降に制作されたと思われる「同社由緒書」によると、『716年(霊亀2年)に、敦賀国 氣比神宮のある越前の国からこの周辺に柵戸移住してきた者たちが、敦賀 氣比神宮の分霊を祀ったものではないかと考えられる・・・』と、されています。それが、昭和初期までの有力説でありましたが、近年の新たな調査結果から、もっと後の、石塚(いしづか)一族が三瀬に落居した1337年(延元2年)頃の創建ではないかとの見解もあります。
 また、1091年(寛治5年)、八幡太郎義家(源義家)が奥州征伐の際に、戦勝祈願のため県小治郎をつかわし、剣一振を奉納し、その剣は三瀬気比神社の第一の宝物として秘蔵されたという伝承からすると、1091年(寛治5年)より前には、神社神道としての形が出来ていたのではないかと思われます。

 現在ある三瀬 気比神社の形は、三瀬の中でも姓が多い「石塚」一族によって創られたものと考えられています。
 石塚氏の祖は中臣(なかとみ)氏であり、同氏は天児屋根命(あめのこやねのみこと)の子孫であるとして中臣連・中臣朝臣となり、朝廷の祭祝を司る名家として、大伴連・物部連・蘇我連と並び対等でありました。
 645年、中臣鎌足(なかとみのかまたり)は、大化改新時に中大兄皇子と組んで皇極天皇の面前で蘇我入鹿(そがのいるか)を切殺し、その功績によって「藤原」の姓を賜り、藤原氏の祖となっています。
 中臣氏は、伊勢外宮の大宮司に任ぜられていましたが、776年(宝亀7年)に越前国の敦賀 気比神宮の大宮司に転ぜられました。
 1336年(延元元年/建武3年)、御醍醐天皇と足利尊氏との確執から南北朝時代に入ると、中臣氏は南朝方となって恒良親皇・護良親王を奉じ、新田義貞と共に越前金ヶ崎城を拠点にして北朝方と戦いましたが、足利氏の武将・高師泰(こうのもろやす)に敗れ、敦賀 氣比神宮も灰塵に帰しました。
 1337年(廷元2年)、戦いに敗れた中臣氏は、河端三家・石塚家・石倉家・平松家・島家・宮内家に分かれて落ち延び離散しました。石塚家一族の主流は北陸路を北に向い、出羽国田川郡 三瀬に落居しました。その数年後に、三瀬 気比神社を勧請したものとも考えられています。三瀬気比神社誌に記載されている宮司も、1835年(天保5年)までは代々・藤原の姓であり、以後は石塚の姓となっています。

 戦国時代には、この地を納める武藤氏の武将・高坂時次と菅沢氏光が、気比大権現の本殿・長床の再建用木を寄進し、天正2年(1574年)には武藤義氏が神田三千刈を寄進しています。歴代の藩主の尊崇も厚く、1612年(慶長7年)、最上少将義光が黒印35石を寄進し、1622年(元和8年)に酒井家が入部すると、たびたび本神社を参拝し多額の金品を奉納しました。現在の本殿は、1707年(宝永4年)庄内藩 七代藩主・酒井忠真公の寄進によるものです。
 1868年(慶応4年)に新政府から出された「神仏分離令」の通達により、同年12月9日、「気比大権現」から「気比大明神」に改称され、ご神体の1つであった「気比大権現像」は近くの了願寺に移されました。明治6年2月、酒田県(山形県)第一大区の郷社に選定、祠官が任命され、11月には村方により社標が立てられました。その後、明治9年には神社の体制や神事諸式を改革して、県社に選定されました。
 明治から大正にかけての広い戦役においては、氏子内の出征軍人 百数十名の中で1人の戦死者も無かった事が郷土紙の「鶴岡新聞(現・荘内日報)」で話題になると、武運長久を祈る参拝者が全国から押し寄せました。当時、三瀬駅から気比神社まで参拝人の行列と露店が続き、例祭や祈願日には臨時列車が運行されるまでになりました。
 1937年(昭和12年)の半年間では7万人近い参拝者が訪れたとの記録があり、1日3千人を超えた日もあったようです。下駄を売る「下駄屋」という屋号があちこちにあるのは、当時の参拝者に下駄を売っていた事の名残です。
 みこの祈祷により、「気比神社の裏の笹が弾丸除けのお守りとして効果あり」とのお告げを受けると、それを戦地の兵士に送ることが氏子や村民の中で広まりました。
 現代においても、学業や商売・スポーツなどにおける勝利を祈る人々が県内外から訪れています。